スワミ・シヴァナンダ

1980年シヴァナンダ・アシュラム付属の病院にて
友永淳子が1980年にインドを訪れた際、一番感銘を
受けたのが、スワミ・シヴァナンダの拓かれた、シヴァナンダ・アシュラムでした。
世界中に知られるヨーガの聖者であり、グルの中のグル、グルデヴとして親しまれています。
淳子が訪れた時、もうグルデヴは亡くなられていましたが、その高弟であり、グルデヴから「シャンカラを越えた哲人」と評されたスワミ・クリシュナナンダに会うことができました。
以来、わたしたちは、スワミ・シヴァナンダの門弟から、教えを授かっています。

1986年インド政府発行の
スワミ・シヴァナンダの切手


クップスワミ
クップスワミ 聖者の生まれ変わり
スワミ・シヴァナンダご自身は、1887年(明治20年)9月7日にタミルナドゥ州のパッタマダイという村に生まれ、両親からクップスワミと名付けられました。
敬虔なシヴァ神の信者だった父が行う毎朝の儀式に、幼いころから非常に興味を示しました。
家系には16世紀に活躍したアッパヤ・ディクシタールという聖者がいたので、その生まれ変わりと信じられました。
慈愛に満ち、使用人や貧しい人々にもらった食べ物や衣類をすぐに施してしまうので、母から小言をいわれるほどでした。
学校の成績もよかったクップスワミは、医学の道を志します。
クップスワミの家はバラモンの家系に属しました。さまざまな人に触れる医師という職業はその身分にふさわしくないと、家族から反対を受けます。
それでも、自分の意見を押し通し、タンジョールという街の医大へと進学します。
勉強熱心で休日も家には戻らず、病院の医局でさまざまな手伝いをしながら研鑽を重ね、初年度で最終学年のテストに合格するほどでした。
人を健康にする医学の情報をもっと広めたいと、「アンブローシア」(ギリシャ語で「神々の食べ物」という意味)という名前の雑誌を刊行しました。
人気の雑誌で、刊行の資金として母親から100ルピー(現在の30万から50万円程度)を借りましたが、1年後には利子をつけて150ルピーを返済できたと語っています。
スポーツも好きだったクップスワミは、大学でフェンシングを習います。
そのフェンシングの教師はアウトカーストの出身でしたので、周囲から彼に習うのはよくないと忠告を受けます。
迷ってしまったクップスワミはあるヴィジョンを見ます。シヴァ神がその先生の胸に入っていくものです。
それを見てからすぐ、花と菓子を持ち、先生に捧げ、足下へひれ伏し、教えを乞いました。

マレーシア時代のクップスワミ

マレーシアのタミル人労働者たち 1925年撮影 https://www.omsakthifilms.com/hist ory-of-plantation-tamils より
病と貧困から学んだマレーシア
卒業後、1913年、26歳の時、イギリス領のマレーシアへ渡ります。
ここでも、両親の反対をうけます。
「海を渡ることは経典に反する」からでした。外国は不浄の地とされていたのでした。
それでもクップスワミは、「困った人のために行くのだから経典も許してくれるでしょう」と受け容れず、母に作ってもらったラドゥー(甘い丸い菓子)をたくさん持ってシンガポール行きの船に乗りました。
着いてすぐ、ゴムのプランテーションに付属する病院で働きはじめました。
インドから連れて来られ、身も心も、貧困と病に侵された人々を診ることは、非常に大変なことでした。
貧しい人からはお金を取らず、徹夜でのつきっきりの看病をし、職を失った労働者に施しをし、どこまでも人に寄り添いました。
時には私財をなげうち、身の周りのものを質に入れて患者を助けました。
「こうした自分の利益を度外視した仕事が、自分の心を浄化してくれ、わたしを修行の道へと導いてくれた」と後に述べています。
すぐに多くの人から信頼され、三つも病院を任されるようになります。
そんな忙しい日々でしたが、クップスワミにはこんな考えが常に湧いて止みませんでした。
「病気、不安、心配、絶望・・・この地球には、なぜこうしたものばかりあるのか?」
「このような繰り返しの、食べて、飲んで、寝て・・の繰り返し以上に、何か人生の目的というものがあるのではないか?」
「色と形あるものは、すぐに滅びていく。時は過ぎ去っていく。幸せを希求する気持ちが痛みと絶望と後悔へと終わっていく」
いくら施しても、劣悪な環境で働かざるを得ない労働者たち。
医師として働けば働くほど、この世の苦しみに限りがないことが示されました。
そして、プランテーションの経営者たちからも信望が厚かったクップスワミは、彼らとも親交がありました。
どれだけ富を集めても、確かな幸福が手に入ることはないことが理解されました。
そして、以前読んだ、聖典の一節が継続して思い出されました。
「この世の事物への執着がなくなったら、その日に修行の道へ進む(出家する)べきだ」
こうした聖典の言葉がクップスワミを動かし、保証された、快適で瀟洒な暮らしを投げうち、インドに戻って祈りと瞑想とより多くの人たちに奉仕ができる道へと進むことを決めました。
1923年(大正12年)36歳の時でした。

1922年のベナレス

額にティラカを描いて
修業と巡礼時代
シンガポールから船に乗り、ベナレスからナーシク、プーナと聖地を巡りました。それぞれの土地にあるアシュラムを訪れ、数日時には数か月を過ごし、祈りと瞑想を続けました。長い道を歩き、托鉢をして旅を続けました。
こうした旅の生活から、いろいろな人に合わせて生活することを学びました。そして、聖者、ヨーギ―と呼ばれる人たちから、多くを学びました。
そして、1924年、リシケシでグルに出会うことができます。スワミ・ヴィシュヌデーヴァナンダという人で、スワミ・シヴァナンダという名前を授かり、本格的な修行生活へと入ります。
リシケシは、修行者があつまるインドの北部、ガンジス河沿いの街です。
修行者のなかには、ヨーガやヴェーダーンタの聖典の齟齬や矛盾について、ずっと話をしているのが好きな人がいました。
また、超能力を得ようとハタ・ヨーガを熱心に行ずる人もいました。
奇跡を起こせるよう、クンダリーニ・ヨーガに魅せられる人、終始神々との別離を嘆き悲しみ、キールタンを歌い、マントラを唱える人もいました。
こういった人の中には、世界中で講演することを夢見て、講演の原稿を書き連ねている人もいました。
スワミ・シヴァナンダはより実践的な修行法をとりいれました。
まず、周囲の病人や貧者の世話をしました。
リシケシにも、上流のベドリナート、ケドダルナートにもたくさんの病人ががいたので、サッティヤ・セワ・アシュラムとうい名の小さな診療所を、ラクシュマン橋付近に設けました。
こうした奉仕は、エゴや傲慢さ、嫌悪や怒り、嫉妬といった感情をの取り除くのに非常に有用でした。
自身の健康を保つために、日々アーサナとプラーナヤーマ、そしてムドラーとバンダ、さらにはダンダ(インド式腕立て)やバティック(スクワット)も取り入れて行いました。
高い理想を保ちながら、シンプルな生活を心掛けました。
軽い食事をとり、しっかり勉強をして、瞑想をして祈りました。
人々から離れ、マウナ(沈黙の行)を行いました。
聖者の話を聞くのは好きでしたが、議論に交わることはしませんでした。
自分を振り返り、自分の心をよく観察しました。
そして、祈りと瞑想の時間をより多く持てるよう、ラクシュマン橋からもう少し下流にあるスワルガアシュラムの、3メートル四方に満たない小さな小屋に移ります。スワミ・シヴァナンダの急速な修行の進みを見た長老たちが与えてくれたのでした。
瞑想に浸る 大いなるものに溶け込む
診察は一日一時間に絞って、河岸に住まう聖者たちの世話をしました。
夕べに、河畔の岩の上での瞑想を何よりも好みました。
一日に4-5時間の瞑想が、7-8時間、そして、時には14-15時間まで伸びていきました。
大自然と一体となり、それにとけこむ体験に没入しました。
ある記録には1930年に、スワミ・シヴァナンダはいわゆる、「サマーディ(三昧、解脱、涅槃)」に達したとあります。
これについて、特に具体的な詳しい内容については明かされていません。
この内容を詳述することが、弟子の多くにとってためにならないからだったと推測されます。
そこを目指すのではなく、日々ヨーガの修行に励むこと、つまり、日々、奉仕すること、修行に集中していくことが何より大切であると、スワミ・シヴァナンダは本人の行動から教えています。

アシュラムにまだ何もなかった頃

海外からも多くの求道者が訪れました(写真は1950年代)

書くことを日課にして、300冊以上を著しました

スワミ・チダナンダと

ガンジス河を背景に
弟子を育てる
スワミ・シヴァナンダの評判を聞きつけて、インド中から求道者たちが集まって来ました。
人数が多くなると時間がとられてしまって大変です。
時に集まった人々に手伝ってもらいながら、聖者と呼ばれる人たちを呼んでお話をしてもらったり、キールタンを歌ったりと、現在のサットサンガの原型が形作られていきます。
インド中の聖地、聖者を訪ね歩いたのもこの頃でした。
ウッタルプラデーシュ州のダムプールの、プールクマーリ・デーヴィに、そしてタミル・ナドゥ州のティルヴァンナーマライのラマナ・マハリシのアシュラムを訪れ、礼拝し、キールタンを歌いました。
要望あれば、どこへでもでかけて行き、ヨーガの話をして、アーサナやプラーナヤーマを教え、バジャンを歌い、薬箱を持って必要な人に施しました。
リシケシより上流のヒマラヤの聖地である、ケダルナートやベドリナート、チベットのカイラース山への巡礼もこのころでした。
休む間もなく、次から次へと講演依頼が押し寄せました。
ヨーガの効率的な学び方を伝え、マントラを唱えキールタンを歌い、人々にヨーガの恩恵を伝えることを喜びとしました。
イギリスの占領下、独立運動が激しくなるなか、禁止されていた集会でしたが、「ラーマの神の御名のもとには何も怖くない」と、何千もの人を前に歌いました。
このツアーから多くの若者がアシュラムに押し寄せました。
そうしているうちに、弟子が増えすぎたので、スワルガ・アシュラムを出ることを決めました。
とはいえ、次の住処が決まっていたわけではありません。
「プランやスケジュールリングはわたしの性分ではないのです。わたしは神の恩寵に頼っています」と述懐するように、引っ越し先も何も決めずにそうしたのでした。
しばらくの間、ラーマアシュラムの図書館や近所の宿坊にお世話になった後、近所に小屋を見つけ、修繕をして住みました。弟子たちは牛小屋を改修して住みました。
そうして、1936年、The Divine Life Society がスタートしました。
そうしているうちに、「真実のグル(サットグル」とか、「神の化身(アヴァター)」などと呼ばれるようになりましたが、それは決してスワミ・シヴァナンダの本意ではありませんでした。
ある弟子に書いた次のように書かれた手紙が今に残ります。
「わたしは、ただ通常の修行者に過ぎません。皆さんのことを助けられるとも思っていません。弟子もとりません。でも、わたしは皆さんの正直な友達でいることはできます。数か月、わたくしのもとで学ぶことを許すことはありますが、2,3ヶ月して自分で瞑想をできるようになったらカシミールやウッタルカシへ行って自分で修業しなさいと伝えています」
「わたしの著作に、『クリシュナの再臨』だとか、『世尊』(バガヴァーン)』と謳わないでください。わたしは、単に皆さんにヨーガの恩恵をお伝えすることが好きなのです。それによって、わたしは浄化され、大きな幸福を得ます」
「ロバや猿にも、わたしは心の中で挨拶をします。皆さんにも同じように、挨拶をします」
アシュラムでは、ブラフマフールタと呼ばれる夜明け前に起きて、瞑想に入ることをルーティーンにしました。
午後にはスワミ・シヴァナンダの著作についての解説を行いました。
イースターとクリスマスには、特別プログラムが組まれました。

スワミ・ヴェンカテーサナンダと


インド中から聖者も挨拶に訪れました 上 アーナンダマー・イー・マー 下 サッティヤ・サイババ

亡くなる2年前スワミ・カーティケヤンと

”スワミ・ギヴァナンダ”

世界の教師へ
そうして、アシュラムは成長を続け、多くの人が修行を重ね、それぞれの生まれ持った傾向に応じた役目を果たしました。
スワミ・シヴァナンダの後を継ぎ、やはり聖者として仰がれ、世界中で講演を行ったスワミ・チダナンダ。
スワミ・チダナンダと一緒にアシュラムを守り、「シャンカラを超えた」と称賛されたスワミ・クリシュナナンダ。
北米にヨーガを伝え、インテグラル・ヨーガを提唱し、カウンター・カルチャーのアイコンになったスワミ・サッチダナンダ。
南アフリカにヨーガを伝えた、スワミ・サハジャ―ナンダ、スワミ・ヴェンカテーサナンダ。
広く西洋に「シヴァナンダ・ヨーガ」を広めた、スワミ・ヴィシュヌデーヴァナンダ。
多くの輝ける弟子たちが集まり、修行し、おのおのの使命を果たすために各地に散らばり、スワミ・シヴァナンダの教えを広めました。
世界中に支部が増え、当然、外国からの求道者も訪れるようになりアシュラムはどんどん大きくなりました。
今では、まるで街のように建物が立ち並び、大勢の人の精神的な救済所に、求道者たちの修行所になっています。
スワミ・シヴァナンダは、自分の死期をよくわきまえ、事前に、「これから聞こえなくなるから、話せなくなるから、前もって聞いておきたいことは質問しておきなさい」と伝えました。
そうして1964年7月14日、入滅しました。
秘法、秘教とされていたさまざまなヨーガの教えを性別、出身地や身分、肌の色にこだわらずに英語で伝え、生涯にわたって300を超える著作を残した、現代の偉大なヨーガの聖人として、今もわたしたちを見守ってくれています。
スワミ・シヴァナンダを慕う人はあとを絶たず、全世界中からアシュラムを目指してやってきます。すべての人種、宗教、国籍、身分を越えたところにある、人々すべてが持つ霊性が大切にされる場所です
何より、奉仕することが一番のヨーガであることを熱心に説きました。
ヴェーダーンタの学説や、クンダリーニ・ヨーガの秘教について学びに来た人に、病人の世話をさせて、いかに人に奉仕をすることが自身の浄化につながるかを教えました。
そして、いつも与え続けた人でした。
今も、アシュラムは一切が寄付によって運営され、ヨーガのクラスを受けたり、レクチャーを聞いたり、宿泊したりすることで料金が取られることはありません。
逆に、供物をもらい、冊子を与えられ、たくさんの物を頂戴してしまうのです。
そう、スワミ・シヴァナンダはスワミ・ギヴァ(give)ナンダと呼ばれたほどでした。
私欲なく、すべての人に神を見ました。
そうした修行の末に得た、圧倒的な静けさ、純粋さ、安らかさが、今もアシュラムを覆って、とてもぎやかになったリシケシの街の精神的な中心として尊ばれています。
参考文献
Autobiography of Swami Sivananda
Swami Sivananda
The DIVINE LIFE SOCIETY PUBLICATION
Sixth Edition: 1995
「シヴァーナンダ・ヨーガ」
スワミ・ヴェンカテーサナンダ著
成瀬貴良編訳 2001年 善本社